「異端」という言葉の問題性
エクレシアMLでは、現代の信仰を語る際に(教会史上の用語、神学上の客観的な概念として使う場合は別として)「異端」(heresy)という言葉をできるだけ使わないようにお願いしており、これはオフィシャルルールにも明記してあります。
それは「異端」は「正統」(orthodoxy)の反対語であり、歴史的に、「正統のキリスト教」を名乗る己の教義上の主張を絶対化し、相手を迫害するために使われて、教会の中ではすでに手垢にまみれ、客観性・相対性を失ったと言える言葉だからです。今なお、「異端」という言葉に客観性・相対性を持たせつつ論じている尊敬すべき先生もおられますが=宮本久雄先生による岩波キリスト教辞典の「正統と異端」の項参照=、教会実務の上では、今さら客観性を持たせて使うのは相当困難ではないかというのが私の感想です。
特にローマ・カトリックに所属する私は、「正統」「異端」の言葉が形作ってきた歴史に、強烈な内部批判を持っています。エクレシアMLの設立趣旨には、それも影響しています。
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私は、「けしからん宗教」を論じる際には、伝統的キリスト教の枠組み(そもそも、どこまでが伝統的キリスト教かという問題がありますが)との違いは、マイナスには考えません。
簡単に言ってしまえば、理屈としては「『正統』でけしからん宗教」「『異端』でまともな宗教」ということも十分あり得るということです。
宗教抜きに明らかな反社会性、犯罪性をもって「けしからん」と言うことは可能だし、被害者が声を上げるべきケースもあります。たとえば統一教会がそうでしょう。宗教とは別のレベルで「けしからん」団体だと言える。その活動の犯罪性=勧誘時に嘘をついたり、教義の全貌を明かさないまま絶対的服従に持っていくカリキュラム、霊感商法など資金集めのアンフェアさなどを追及するのはよろしいし、大いにやるべきでしょう。
でも、それは宗教の教義についての議論とは、いちおう(完全に峻別できるかどうかは、保留します)一線を画する。その「いかがわしさ」は、伝統的キリスト教のみならず、仏教もイスラームも無神論も全部含んだ、社会一般の倫理規範から導き出されるべきであり、伝統的キリスト教からの教義上の乖離の度合いとは全く関係ない。(ただ、伝統的キリスト教ではないのに、それを想起させる名称を使って活動する団体の是非という問題は残りますが、ここではそれは保留します)
統一教会など破壊的カルトの犯罪性と「異端」概念を短絡し、破壊的カルト対策と「異端からの救出」とを同一視してキャンペーンを張る個人やグループが、いまだに一部に存在するとも聞きますが、この発想には、きわめて問題があり、異端概念の導入は破壊的カルト批判側の「自爆」と言うべきであろうかと思います。(2005/12/28/8:42修正)
