なぜ「議論のML」か?~少数者のための議論と信仰
なぜ、エクレシアMLが「議論・対話のML」を標榜しているか、少々説明を加えておきましょう。管理者が別のサイトに個人として発表したことがある文書を抜粋要約・一部改変する形で掲載します。
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世の中には「弱者」「少数者」と呼ばれる人々が存在します(私自身は、少々複雑な環境にありまして、多数者の立場だったり、少数者の立場だったり、いろいろです。このため、この文章も視点が一定しませんが、お許しを)。なぜこのような人々が存在するか(あるいは、させられてしまっているか)は、別の機会に述べたいと思います。とりあえず、ここでは「弱者」「少数者」は、自己の主張を貫徹して生きる権利を有するという大前提をとらせていただきます。
弱者・少数者が、自己の存在をアピールし、自己の権利を主張するために、議論、対話は、きわめて有用な道具となります。
強者・多数者の価値観は、往々にして一元的・統一的なものを指向して、異質なものを圧殺する傾向を持つ場合があります。そして、そのような社会の構成員は、自分たちが、弱者・少数者を圧殺しているという意識自体が低いことが多いのです。多数決原理にもとづく議会制民主主義では、このような少数者圧殺が「落とし穴」として存在します。ある意味、民主主義と自由の緊張関係の局面のひとつかもしれません。民主主義による自由の圧迫は、現代においては止揚されていることも多いでしょうが、まだ存在はします。
その多数者・強者による価値観を批判し、それに対する反批判を検討するというやりとりを繰り返すことによって、弱者・少数者は自分たちが行動すべき内容を整理することができ、何よりも、圧殺に気づいていない多数側の人々に対して、自分たちが「自分たちの本来の姿で生きるチャンス」を潰されていくということを明らかにできます。そして、強者・多数者の側に、多様性・多元性を認めるべく再考を求めることができるのです。
ただし、強者・多数者の側が「耳を貸さない」「弱者・少数者が多数者の側に一方的に合わせるべきだ」と一蹴される可能性も多分にあります。それら一元的価値観社会のメンバーは、一元性、閉鎖性という本質ゆえに、対話そのものを行えない場合があるということです。この場合、対話不能による分裂、もしくは革命・反乱しか残された道がないということもありましょう。これは、最後まで保留される点として残ります。
ここでの議論、もしくは対話とは、ことばを駆使し、己の見解を相手の批判対象として差し出し、自分もまた、相手の見解を全力で批判することです。(ですから、少数者・弱者は、相手の見解を批判すると同時に、自己の見解をも批判されることは覚悟しなければなりません)
そして、特に弱者・少数者の尊重のための対話に関して述べるなら、対話・議論は、価値観の一致を目指すのではなく、相違したままに共存するために、相違を徹底して追求することが目的になりましょう。
相互批判による相違の確認、相違を認め合った上での共存という作業は、お互いの努力不足、知識不足、弱点やトラウマに触れねばならないことも多くあります。また、多様な価値観の共存自体、一元的価値観に統一されたシステムよりも、個別の対応が多く要求され、きわめて非能率です。弱者・少数者の権利を主張する人々が能率追求の社会をも批判する側に回ることが多いのは、このためもあります。ある意味で「非生産的」なものを指向しているわけで、これ自体、不利なアクションであることは覚悟すべきでしょう。
時には混乱も不可避です。作業の際に、精神的消耗を余儀なくされたり、時には個人的確執に発展したり感情に流れたりするケースが出てきます。「波風が立つ」「エキサイトする」場合も多いということです。前述のように、対話不能の状態を再確認するだけで終わってしまう場合も多いでしょう。
逆に言えば、波風の立たない解決、あるいは能率的で混乱のない解決とは、多数者の平穏を是とする一元的価値観による解決であることが多い。波風が立つことを怖れていては、弱者・少数者は潰されていくばかりです。
そして、ここで留意すべきは、弱者・少数者には、肉体的にも精神的にも人一倍脆弱な、傷つきやすい、訓練を受けていない人間が多く、そのような人が議論当事者にならねばならない場合、議論によって自分自身が精神的に傷を負う危険がどうしても避けられないということです。
弱者・少数者は、議論に必要な「言葉」「論法」、誤解を怖れずにさらに言えば、その主張に必要な「論理」「いわゆる常識」の習得を十分になしえていない場合も多く、そのために大きな心の傷を負うこともあります。もっと言えば、相手を混乱させたり、善意の相手をも巻き込んで傷つける可能性さえ十分にあります。特に現在のネット上のような、主たる対話手段がテキストのやりとりである場合は、この問題は際立つでしょう。少数者・弱者の立場にあるはずの方が、同時に、他者の発言を妨害したり、他者を傷つけるような放言を繰り返す、いわゆる「荒らし」になることは、珍しいことではありません。
なお、微妙な言い方になりますが、多数者・強者の立場にある方が少数者・弱者よりも常に「論理的」「主張の展開における常識を備えている」というわけではありません。ただ、多数者・強者は、多数者・強者であることそれ自体をもって、自己のスタンスをすべて「常識」として押し通すことはできます(少数者尊重もまた「常識」となりえるので、この態度には問題があるのですが)。あるいは、多数者・強者は、自己の主張をラジカルに展開しなくとも、議論をしなくとも、のうのうと生きていける場合の方が多いというだけかもしれません。
ここでの「言葉」「論法」「論理」とは、表面的な言語能力ではなく、相互批判に耐えるだけの客観性を備えた「自分を突き放してみる」発想とでもいうべきものです。いわゆる(左翼用語とされている)「自己批判」が可能なだけの条件を備えているかどうか、と言えば分かりやすいかもしれません。
表面的な言語能力については、たとえば現在の日本の標準的な高等学校卒業程度の若者、そうでなくとも、それに匹敵する社会経験を数年積んだ人物なら、さほどの不足はないのです。多くの場合問題なのは、表面的な言語能力ではなく、発想自体の欠如なのです。
「波風が立つ」ことを嫌う風潮の中では、強者、弱者を問わず、この発想が育ちにくい。だから、もともと脆弱さを背負った少数者・弱者は、教育訓練を積む機会がなく、ますます言葉を奪われ、にっちもさっちも行かなくなった段階で、戦略として「まずい」暴発、ネットにおいては「荒らし」をしてしまうという悪循環も生じ得ます。これを解消する方法は、残念ながら、私にはまだ考えつきません。徐々に一緒に考えていく機会をできるだけつくるという以外は、現段階では申し上げようがありません。
対話手法を身につけにくいことが多い者が、他者よりも強力なコミュニケーション能力が必要とされる議論当事者としての立場に立たされる。残酷な不条理が、この問題を語る際には必ずついて回る。
ここで、苦しい選択を余儀なくされる場合があると思います(すべての場合が二者択一ではありません。実際はもっと多様で中間的でしょうが)。もともと傷つきやすく、言葉も不足している少数者・弱者が、時には疲れ、傷つき、傷つける危険を冒しても、数知れぬ誤解や行き違いや挫折を経ても、議論によって、多様な価値観の共存を目指しながら歩く(少数者・弱者でない立場の人間はそれを可能な限り容認する)か、それとも傷つくこと、疲れることを回避し、多数派の平穏を重視し、一元的価値観に偏った収束を目指すかです。
前述のように、一元的価値観に偏った収束を目指せば、非生産的存在、一元的価値観に反する存在は抹殺される可能性があります。一元的価値観に軌道修正できる人はまだいいでしょうが、それが不可能な人もいる。心や体に障碍を負った人が一人前に扱われない世界で、障碍を負った人が障碍を「なかったこと」にはできないのですから。やはり、弱者・少数者は、疲れ、傷つき、血を流す危険をおかしてでも、多数派の平穏を乱してでも、さらに対話不能を確認するだけに終わる可能性を承知の上でも、体を張って異なる主張を叩き付けなければならない場合があるのではないかと思うのです。
念のために言い添えれば、それは、弱者・少数者の人々自身の自由意思によるものであるべきで、断じて強制されての反抗であってはなりません。「そうしなければいたたまれない」場合があるということです。
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疲れ、傷つき、血を流す危険をおかしてでも、多数派の平穏を乱してでも、体を張って異なる主張をぶつけ合わなければならない議論が、少数者の生存に必要な手段であるとするならば、主張することに疲れ、傷ついた少数者・弱者を無条件に受け入れ、癒す存在もまた不可欠となると思われます。いわば、人間存在そのもののセーフティネットとでも申しましょうか。それは、人間存在の外にあるという意味において、人間を超えたものを想定した思想でしょう。私自身は、それをキリスト教という形で伝えられてきたナザレの人イエスの思想の中に求めるのです。
私は信仰告白をしたキリスト者ですが、キリスト教と呼ばれる宗教そのものをすべて肯定するわけではありません。そして、キリスト教の中で伝えられてきた思想が万人に共通する「セーフティネット」の絶対のイメージとは思いません。たとえばイスラームの中や仏教の中で伝えられてきたイメージもあるし、さらにまったく違った形の超越的存在を想定したイメージもありうるだろう。その点で私は、キリスト教の外にも、救いの道は開かれていると信じます。
ただ、キリスト教という、ある程度の「共通の言葉」を持ちうる相手とは、そのセーフティネット、あるいは「激しい議論のエンドライン」を共有しやすい。宗教という側面において、内包する絶対性の故に思考停止を招きやすい反面、キリスト教をベースにした「議論」のアドバンテージも、ここにありうると考えます。
